
― 判断の軸と教養の話 ―
たとえば誰かがこう言ったとします。
「それは善くないことだと思うよ」
私たちはその言葉を聞くと、「倫理的に間違っている」とか、「ルールに反している」とか、あるいは「誰かを傷つけている」というように、いくつかの観点から“善くない理由”を探しに行こうとします。でもその判断って、一体どこから来るんだろう?
私は最近、「善悪の判断の軸ってどこにあるんだろう」と考えるようになりました。
善い判断には、知性だけでは足りない
論理的に考える力――いわゆる「知性」は、現代社会ではとても重要なスキルとして評価されます。
情報を整理し、矛盾なく結論を導く力は、あらゆる場面で役立ちます。
けれど、「それは善いことか?」と問うときには、単なる論理では届かない何かが必要になります。
論理だけでは、「自分にとって有利かどうか」までは判断できても、「人として正しいかどうか」までは測れない。
そのギャップを埋めるのが、教養なのではないかと感じています。
教養とは、「何が正しいか」を考えるための素材
教養という言葉は、古くさく聞こえるかもしれません。
でも、それは単に知識の多さを指すわけではなく、自分の外側にある価値観や世界に触れてきた経験のことだと思うのです。
文学を読んで、他人の感情に想像力を働かせること。
歴史を学んで、過去に人がなぜそうした選択をしたのかを考えること。
美術館で絵を見て、言葉にならない何かを感じること。
それらはすべて、「何が善いか」を考えるための“思考の素材”になります。
「知っている」だけではなく「感じられる」人に
知識や情報は、検索すればすぐに手に入ります。
でも、他人の痛みや、社会の矛盾に気づける人であるには、それ以上の「感じる力」が必要です。
私は、教養とはその“感じる力”を静かに育ててくれるものだと思います。
そして、その土台の上にこそ、本当の意味での人間的な知性が築かれるのではないかと。
最後に:問いを持ち続けるということ
この記事に答えはありません。
ただ、自分が何かを「善い」と思ったときに、
その判断の背景にある「軸」はどこから来ているのか?と問い続けてみたいのです。
「それ、善いと思う?」
そう自分に問いかけられるようになることが、たぶん教養のはじまりなのかもしれません。
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